日仏哲学会2024年秋季大会プログラム

日仏哲学会 2024年秋季大会(創立50周年記念大会) 

日時  2024年9月7日(土)−8日(日)
場所  東京都立大学(南大沢)1号館(正門入ってすぐ右手)
形式  対面(総会と一般研究発表の一つのみオンラインと併用)

9月7日(土)

10:00-12:00 ワークショップ1
1)1-110教室「フランス哲学における〈社会的なもの〉:フランソワ・エヴァルドを起点に」(清水雄大、赤羽悠、白瀬小百合、真島一郎、渡名喜庸哲)
2)1-120教室「ドゥルージアン・プラグマティズム――現代プラグマティズムとドゥルーズ」(得能想平、西川耕平、白川晋太郎、朱喜哲)

12:00-13:00 休憩

13:00-15:00 ワークショップ2
3)1-110教室「知られざる英米仏哲学史」(米田翼、山根秀介、磯島浩貴、小山虎)
4)1-120教室「哲学プラクティスのどこが「哲学」なのか?――若手フランス哲学研究者からの応答」(馬場智一、山森裕毅、戸澤幸作)

15:30-17:30 カトリーヌ・マラブー(Catherine Malabou)講演会 1-120教室
「死の思想をめぐるフランス哲学の新たな展望」 Philosophie française et nouvelles perspectives sur la pensée de la mort
司会:西山雄二 フランス語使用(翻訳配布、通訳有)

18:00- 懇親会(生協食堂)
会費 5000 円/学⽣・院⽣・⾮常勤職2000 円
基本的に事前予約制。下記のフォームから⼊⼒を御願いします。8/31〆切。
https://docs.google.com/forms/d/1_64aumFzo2xSUTehbsZ7edqle7D04aND6ujkd-q_TII/

9月8日(日)

9:00-12:40 一般研究発表
発表時間帯 ①9:00-9:40 ②9:45-10:25 ③10:30-11:10 ④11:15-11:55 ⑤12:00-12:40

第1部会 1-103 教室 (司会:①②秋保亘、③④平井靖史)
① 佐々木晃也「Sentire, quae velit:スピノザにとっての哲学すること」
② 寺嶋雅彦「G.W.ライプニッツにおける「積極的諦念」という生き方――「予定調和」と「最善世界」からの帰結として、また、オプティミズムとペシミズムの総合として」
③ 松尾太陽「ベルクソン哲学における直観と実証科学の関係を再考する」
④ 上野隆弘「カンギレムの科学史研究再考――誤謬あるいは奇形の問題を中心として」

第2部会 1-104 教室 (司会:①②郷原佳以、③④黒木秀房)
① 若杉直人「ジョルジュ・バタイユの方法論――演劇化と弁証法の交差」
② 三ツ谷直子「モーリス・ブランショにおける詩のイメージ:『来るべき書物』の読解を通して」
③ 関大聡「J.-P. サルトルにおける「実感不可能なもの」の概念」
④ 八木悠允「フランスにおけるショーペンハウアー受容について:ミシェル・ウエルベックを中心に」

第3部会 1-105 教室 (司会:①②③渡名喜庸哲、④⑤宇佐美達朗)
① 本間義啓「聴声主体の自己経験における沈黙の様態:pulsion invocanteについて考察」
② 小林嶺「エマニュエル・レヴィナスにおける「憎悪」の問題」
③ 篠田拓久「考古学と主体性――ミシェル・フーコーにおける起源の問題」
④ 石長佑一「シモンドン技術論における百科全書主義と自由の問題」
⑤ 堀江郁智「インターネット空間の社会思想のために――シモンドンの哲学を手がかりに」

第4部会 1-110 教室 (司会:①②廣瀬浩司、③④小倉拓也)
① 野々村伊純「メルロ゠ポンティにおける自然的態度の問題」
② 横田仁「制度化と責任――メルロ=ポンティにおける表現者の問題」
③ 濱田力稀「ガタリにおける二つの「実践」概念――サルトルとフーコーを通して」
④ 仲宗根大介「ドゥルーズの美学=感性論について──イポリット『論理と実存』との関わりから」(オンライン参加)

第5部会 1-120 教室 (司会:①②桐谷慧、③④宮﨑裕助)
① 木村稜「「基礎づけは約束である」──ジャック・デリダによる基礎づけ主義の脱構築」
② 櫻田裕紀「理性の声はいかなるトーンで話すのか:デリダ『哲学における最近の黙示録的語調について』の一考察」
③ 森脇透青「デリダ「真理の配達人」における「女」とヴェール──精神分析との摩擦」
④ 小川歩人「1970年代のデリダにおけるイデオロギー論解釈──再生産と想像力」

13:15-14:15 総会(1-120 教室にてハイフレックス式)

14:15-15:15 「日仏哲学会50周年をめぐって」(1-120 教室)
安孫子信「野田又夫とフランス哲学」
檜垣立哉「澤瀉久敬『ベルクソン研究』と『医学概論』をめぐって」

15:30-18:00 シンポジウム「哲学史でもって何をなしうるのか?」(1-120 教室)(司会=上野修)
発表
・佐藤真人「哲学史を知らねばなぜ哲学できないのか ――ジャン=リュック・マリオンの三つの道を束ねる形而上学とその展開」(仮題)
・近藤和敬「問題としての哲学の歴史とはなにか――哲学的実在論とは別の仕方で哲学するために」
・藤本一勇「脱構築の遺産継承(héritage)」

ワークショップ/シンポジウム要旨

フランス哲学における〈社会的なもの〉:フランソワ・エヴァルドを起点に(清水雄大、赤羽悠、白瀬小百合、真島一郎、渡名喜庸哲)
本ワークショップは、現在翻訳が進行中のフランソワ・エヴァルドの主著『福祉国家』を起点にして、フランスにおける社会的なものの思想を多角的に検討する。同書は、ジャック・ドンズロの『社会的なものの発明』と並び、フーコーの統治性研究を引き継ぐものとして、あるいは、19世紀における労働災害や社会保険の形成に焦点をあてることで、ウルリッヒ・ベックと並ぶリスク社会論の先駆けとして、現代哲学・社会思想の領域で広範な意義を有するものである。それにもかかわらず、エヴァルドは今日、フーコー思考集成の編者として以外にはあまり知られておらず、その著作が正当に評価されているとも(そもそも読まれているとも)言いがたい。それゆえ、本ワークショップでは、フランソワ・エヴァルドの思想とその位置付けを多角的に検討することを目的とする。
ワークショップは二部構成となる。コーディネータの渡名喜よりエヴァルドの『福祉国家』の概要が示されたあと、第一部では、フーコーを専門とする清水雄大からフーコー研究の観点でのエヴァルドの位置付けを、人類学者でかつドンズロ『社会的なものの発明』の翻訳者である真島一郎からはドンズロから見たエヴァルドの姿を確認する。第二部では、19世紀を主なフィールドとするエヴァルドの仕事の意義を評価するために、19世紀フランスの社会思想史を専門とする白瀬小百合、赤羽悠が各々の視点から考察を行う。

ドゥルージアン・プラグマティズム――現代プラグマティズムとドゥルーズ(得能想平、西川耕平、白川晋太郎、朱喜哲)
本ワークショップは、現代プラグマティズムとドゥルーズ哲学とのいくつかの共鳴する点を出発点として、新たな可能性を考えるものである。ドゥルーズと現代プラグマティズムの共通点としては、20世紀初頭以来のプラグマティズムの議論を基盤とする点、行為と知識との相互依存の関係から、科学だけでなく、社会や政治にまで論点へと広げる点などを挙げることができる。他方で大きな相違点としては、超越論哲学と言語哲学という方法論の観点を挙げることができる。また直接の接点としては、ローティによる『ニーチェと哲学』についての書評があり、ローティはこのなかでドゥルーズのニーチェ解釈を厳しく批判していた。とはいえ、同時代人であるフーコー、デリダ、リオタールに対して示してきた好意的な態度を考慮にいれるのであれば、ローティのこのような態度は、ドゥルーズに対する両義性を示唆するものと考えられる。本ワークショップでは、ブランダムを研究する白川晋太郎氏と、ローティを研究する朱喜哲氏をお呼びして、ドゥルーズと現代プラグマティズムの対話を試みたい。

知られざる英米仏哲学史(米田翼、山根秀介、磯島浩貴、小山虎)
近年、フランス哲学と英米哲学の垣根を越えて、両者の思想交流に関する哲学史研究や、フランス哲学の古典を現代形而上学の観点から再検討する研究が世界的に興隆している。本WSでは、こうしたフランス哲学研究のグローバルな発展を考慮し、英語圏の哲学・思想の研究者たちを巻き込んだかたちでのフランス哲学・思想の研究の足場を構築するための第一歩として、19世紀後半から20世紀初頭にかけてのフランス哲学と英米哲学の思想交流を再検討してみたい。具体的には、ジェイムズ、ラッセル、アレクサンダーといった現代の英語圏の哲学に多大な影響を与えた哲学者たちと、フランスの哲学者たち(プルードン、ルヌヴィエ、ラヴェッソン、ベルクソン等々)との知られざる思想交流を発掘し、そこからどのような研究の広がりが考えられるのかについて、特定質問者や聴衆と共に議論する。

哲学プラクティスのどこが「哲学」なのか?――若手フランス哲学研究者からの応答(馬場智一、山森裕毅、戸澤幸作)
現在、哲学プラクティス(ここでは広い意味で、哲学対話、哲学カフェ、子どものための哲学、哲学カウンセリングなどを総称する)と呼ばれる対話実践が国内外で注目されている。本ワークショップでは、哲学・思想史研究者がこの対話実践に関わることにどのような意義を見出しうるのか、哲学・思想史研究者がこの対話実践から得られるものは何か、を巡って提題を行う。この対話実践は様々な形態で行われる。その実施目的もまた時と場所によって多様である。そうであるからこそ、主催者ないしファシリテーターがこの対話実践にどのような意義を見出しているのかが重要になる。ここにおいて、この対話実践に参加する哲学・思想史研究者は、対話の場を開き支えぬくために、自らの専門性に裏付けられた基礎=根拠を探し求めることになるだろう。本ワークショップの提題者である山森、馬場、戸澤は、20世紀後半のフランス哲学を主たる研究のフィールドとしてきた(ガタリ、ドゥルーズ、レヴィナス)。だが、それぞれに自らの専門性と哲学プラクティスとの関係性を考えてきた。それは研究と実践の連続性であり、和解であり、あるいは反射・反響でもある。主として英米圏の文脈で語られることの多いこの対話実践ではあるが、フランス哲学・思想史の専門家にもその門戸は開かれているはずだ。なぜなら、この対話実践は、文字通り、すべてのひとへと開かれたものであるはずだからである。

カトリーヌ・マラブー講演「死の思想をめぐるフランス哲学の新たな展望」

近年、フランス哲学はハイデガー哲学を継承して、新たな死の思想へとさまざまに展開している。こうした思潮は、死の「現実」——生態系の危機と生物への脅威——の考慮をいかに含んでいるのか。「実存」や「死への存在」というハイデガーの概念は、今日、いかなる変化を求められているのか。一方で、ジャン=リュック・ナンシーは有限性の実存論的アプローチを先鋭化させ、脱自=恍惚的な実存を共同性と関連づける。他方で、アラン・バディウは実在性への回帰を説き、存在者はさまざまな現実性の度合いに応じて実存するとする。これら二つの解釈と地平を受けて、「絶滅」という概念の哲学的含意を明らかにすることが急務ではないか。生態系の危機はさまざまな種の絶滅をもたらしている。死への存在や実存—非実存の対概念を含む「絶滅」を、実存の新たな名として思考すべきではないか。

シンポジウム「哲学史でもって何をなしうるのか?」(司会=上野修)

「哲学史」は近頃どこへ行ってしまったのか? 「現代思想」の隆盛の中でそれはたしかに一つの気がかりではある。そこで今一度(ただし一切の懐古趣味を排したうえで)問うてみたい。哲学史とは何か? 哲学史でもって人はなお何をなしうるのか?
「哲学史」という言葉には注意が必要である。まずそれは文字どおり、ソクラテスに遡る哲学そのものの歴史を指す。と同時に、それは一つの学問ジャンルを指す。ジャンルとしての哲学史はせいぜいカント以降のものにすぎない。19世紀、ドイツの大学近代化とともに数多の「哲学史」が出版され、クーザンによってフランスに移植された。明治の帝国大学も同様である。以来、哲学史は近代の「大学の言説」として教養の一部となっていった。哲学史はやっぱり大事でしょう、などと言うときの「哲学史」である。
だがそれとは別に、ある種の研究スタイルとしての「哲学史」がある。近ごろ哲学史をやる若手が少なくなってきた、などと言うときの「哲学史」である。デカルト、ベルクソンといった固有名への言及、特権的なテクストの分析がその特徴だが、しかしそれで何をしているのかは決して自明ではない。本シンポジウムが取り上げたいのはこの三つ目の、問題としての「哲学史」である。なぜ特権的テクストなのか?なぜ違う時代に遡及するのか? デカルト研究の佐藤真人、エピステモロジー研究の近藤和敬、デリダ研究の藤本一勇の各氏を迎え討議する。(上野修)
発表
・佐藤真人「哲学史を知らねばなぜ哲学できないのか ――ジャン=リュック・マリオンの三つの道を束ねる形而上学とその展開」(仮題)
ジャン=リュック・マリオンの哲学的営みはデカルト哲学研究、現象学研究とキリスト教神学思想研究という三つの柱からなる。哲学史を支えとする現代形而上学の可能性を探る。
・近藤和敬「問題としての哲学の歴史とはなにか――哲学的実在論とは別の仕方で哲学するために」
哲学それ自体の固有の方法としての哲学史は、「哲学的内容」の実在論という保守的な立場によって保持される。だが、そうした「哲学的実在論」とは別の仕方で哲学する可能性はある。数学の実在論論争以後の状況(カヴァイエス、グランジェ、バディウなど)と並行する状況の中で、哲学的実在論とは異なる仕方で哲学を遂行可能にするための議論枠組みを提示する。
・藤本一勇「脱構築の遺産継承(héritage)」
デリダのhéritage論を哲学史の問題と絡めて考察する。初期のエクリチュール論、代補論、散種論から、後期の来たるべきデモクラシーや遺産継承といった議論を、とくにヘーゲルとハイデガーのデリダ流の「遺産継承」の実践として解釈する予定である。

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